医者をやめてツリーハウスを作ることにした話

2018年夏、僕は悩んでいた。自分の現状にどうにも満足できない、このままでは小さくまとまってしまうのではないか、そんな入社3年目のサラリーマンのような焦燥感にかられていた。

 

その頃の自分の背景について少し説明しておきたい。僕は地方の小都市に生まれ、特に不満もない家庭環境でのびのびと育ってきた。学校の勉強が結構できたので、進学を目指した公立高校に入り、大きな挫折を味わうこともなく青少年時代を過ごした。

当時、テレビのニュースでは就職難が声高に叫ばれていて、思春期の心に大きな傷を残したと見え、高校生の僕は安定感のある仕事を求めるようになっていた。都会への憧れと地元への愛着を等しく持ち合わせており、仕事がないことを恐れていたため、手に職をつけて、日本のどこででも安定して食べていけるような専門的な職業を考えた。僕は幼いころからものづくりが好きで、特に家をリフォームする際大工さんの仕事を熱心に見ていたとの祖母の証言がある。そんなことから建築家を目指していた時期もあったが、時代は不景気で、一級建築士をとっても仕事が無く困っている建築家もいるという話を聞き、すぐに断念した。脆い夢である。

そんな事があって、盤石な需要と雇用機会を持ち合わせた、医師が良いのではないかと結論したのだろうと思う。医学部というと学費が高額というイメージだが、国立大学であれば他の学部と変わらず、親への負担もそれほど大きくないと思われた。

今になって考えれば、学費を無償で出してもらえることは当然のように受け入れ、それでいて中途半端な遠慮をしているものだと思う。

 

さて、大学入学とともに郷里を離れ、地方都市で6年間の大学生活を送った。医学部はやはり専門性の高い学部であり、学問を学んでいるというより仕事の考え方を学んでいると思うことも多かった。

まず、これは教壇に立つ医師から繰り返し口にされた言葉だが、医師とは「聖職」であるという考え方である。神聖な職業という意味のこの言葉だが、宗教関連の仕事や、転じて教師や医師にも使われることがある。人の命を預かる仕事であり、慎重に誠意を持ってこれを行うべきという考え方は素晴らしいものだが、この言葉には、「聖職」とそうでない職業を差別化し、特権的な意識を自分たちの集団にもたせる効果があると思う。そして、「聖職」とよばれることのある教師と医師に共通して見られる特徴、それは長時間労働である。つまり、これらの職種は通常のサービス業とは異なり神聖で特別な職業であるから、単なる仕事としてではなく全人生をかけて取り組み、労働基準やプライベートなどというものを考えてはならないという論理が見え隠れする。これは民族や国家にも言えることだけど、自分たちを特別だとみなす言葉を、特に一人称で安易に使用するのは危険だと考えられる。

しかし当時は、まあ生半可な覚悟でこの仕事はできないぞと思ったに過ぎない。

 

また、これとは別に、「医学」という学問の底知れない面白さを知ることになった。科学ではあるものの、その対象は人間の化学的反応や行動、心理状態、様々な環境の暴露など実に多岐にわたっている。睡眠や思考、意識の正体すら解明されていない。人工的には臓器一つすら作ることができない。医療とは、そのような不確実性の洞窟の中で、ごく一部の証明されている(ように見える)因果関係や生体反応を道具として、今この患者にできるベストなことを掘り当てる作業である。そこには解明されていない事実を追い求める喜びとともに、病気に対する医学の至らなさによる虚無感が同居している。人は必ず死ぬものだし、患者が死ぬことはイコール自分の失敗ではないのだとしても、そこには必ず苦い感情がある。

「聖職」の話とは別になるが、自分の力が足らないために悪い転機をたどった場合、自分にもっと力があれば、もっと時間をかければ違う結果になったかもしれないという後悔の気持ちが芽生える。これはどんな業界でも自然な感情のはたらきだと思う。そして現に、寝食も返上してたっぷり時間をかけて調査し、万全の自信を持って仕事に当たることで、失敗率は減少し、うまくいかなかったときの後悔も小さくなる。そこに際限は無く、どこかで線引をするのは自分しかいないと思う。まだやれると自分で判断して長時間頑張るのは良いが、そのためにはあらゆる強迫観念や健康上の危機が無いことが条件である。

 

このように、思うことは多い医師の世界だが、免許をとっても仕事ができないのではなんの意味もない。当初の食いっぱぐれを無くすという目標を達成しないままである。僕は進路を、ダイナミックで根治性の高い「外科」に定め、そのキャリアを歩みだした。若手外科医として数年間働いたわけだが、まずまずうまくやっていたと思う。手がかりが全く無くて悩むことも多かったし、周りの同期がどんどん先に行っているように見えて焦ることもあったが、少しずつ知識が増え、落ち着いて対応できる案件が増えることには、後からじわじわ来るタイプの恍惚感があった。

話は逸れるが、人づてに自分の良い評価を聞くと本当に嬉しい気持ちになる。それを分かって積極的に伝えてくれる人というのがいて、人間関係を円滑にしてみんなをハッピーにできるありがたい人だと思う。逆に、人が悪口を言っていたことをさらに伝言してくる人もいて、何よりも軽蔑されるべき愚かな行いだと思う。なぜなら、人が非難された内容を広めることで、その非難された人の評価を下げるばかりでなく、非難した人すらも、他人の悪口を言う人として評判を貶められるからである。さらにこの手の人は、人の評価を下げることでしか自分の立場を守れないパターンに嵌まることが多く、悪口は悪口を生み、職場が負のスパイラルに落ち込んでいく。

 

ある程度自分の仕事の型も出来てきて、周囲の評価も受けるようになり、このまま疑問も無く順調にキャリアを続けていくことなるかと思われたが、そうではなかった。

この仕事にやりがいがあるかと言われれば、これ以上無いくらいのやりがいがある。病気で苦しむ人が自分の前に来て、何が問題かを自分の知識で見抜き、自分の手で手術を行い、元気になって感謝しながら家に帰っていく。こんなにわかりやすい社会的喜びはあるだろうか。しかし、これは重大な責任の裏返しでもある。まずどんなに厄介そうな病気でも、目の前の患者を断ることは倫理的にも法律的にもできないし、知識や注意力が足らなければ誤診だってする。手術の結果が思うように運ばないこともあれば、癌であれば一定の確率で再発したりもする。責任が重ければ重いほど、うまくいかなかったときの後悔も大きい。その分、自分で無理をして満足できるまで時間を掛けたくなる。医師の長時間労働問題で難しい部分はここである。自分でできる範囲までしかやらないという態度は、医の倫理との間で齟齬が生まれる。

僕の場合も、時間と精神の束縛はかなり感じていた。日中の時間はほぼ手術で消費され、病棟患者の診察や処置は時間外にずれ込む。また当直も月に数回回ってくるし、当直以外でも緊急手術を要する患者がいれば行かなければならない。休日も1日1回は診察し、問題がないことを確認する。自ずと病院から30分以上かかる距離には移動できないのが当たり前になる。オフの間は常に自分の患者が急変するリスクを感じており、精神的にも束縛された状態となってしまう。

 

また、昔から旅への憧れがあり、学生時代は車で遠くへ行くのが好きだった。しかし時間的にも肉体的にも縛られていて、旅への欲求は抑圧の一途をたどっていた。遠方の友人と会おうにも身動きが取れず、不満な思いが募っていた。一方で、身体と精神の制限は強かったものの、健康状態はいたって良好であった。だが突然仕事に来られなくなったり、精神的に病んでしまった医師もいた。自分の精神的安定性にはかなり自信があったが、突然うつ病を発症する可能性は誰にでもあるし、そういう全く感知できないリスクに対する恐怖は感じていた。

 

何よりも、外科医の第一線で活躍している医師たちは、こんな生活を何十年も続けているということが心を打った。圧倒的な知識量が必要とされる内容だし、半分学者のような職業なので、ものすごい時間を掛けて勉強、研究し続けることが何より大切なのである。自分の時間を患者のためにどれだけ割けるか考えているようでは、全く追いつくことの出来ない土俵であった。

どちらの生き方が良いかなんてことを決めることはできない。価値観は人それぞれだからだ。しかし、僕にとって人生のすべてを医学に費やして、医療の進歩のために献身することは、絶対的な幸福とは言えないと思った。

そのうち、自分でできる範囲の中途半端な努力を続けて、だらだらと精神的な抑圧に身体を晒し続けることに耐えられなくなってきた。人生をかけてもいいと思えるほどのビジョンに対して命がけで頑張るのなら、様々なものを犠牲にしても自分の中では満足感があるだろう。しかし自分でそれほどの覚悟がない事、しかし責任の大きさからかなりの努力は要する事に対して、長く続けて満足することはあるだろうか。

 

ここで、どうしてこんなジレンマに陥ってしまったか整理してみよう。

そもそも医師になったのは、安定した仕事で、どこでも働けるからだ。この時点での理想像は、十分な知識、技能があり、身軽に移動してスッとコミュニティに入れる適応力のある医師だ。

しかし、医師という職業自体に、時間的要求が大きく、ワークライフバランスと医の倫理の間に自分で線引をしなければならないという問題点がある。可能な限り最大の努力を続けて医の追求をする医師と、自分の仕事をしっかり割り切ってプライベートを大事にする医師と、その狭間で揺れ動く医師がいる。

そして、自分の価値観で優先されているのは、どこでも働ける身軽さと、旅行や友人、家族と過ごす時間である。

 

こうやって書き出してしまうともう答えは出ているようなものだが、自分の倫理観に嘘をつかず、プライベートを確保するために、僕は医師をやめるという決断に至った。

いつだって、何かを捨てるという決断はとても心が苦しいものだ。大学1年生のときにも似たようなことがあった。その時僕は部活を2つ掛け持ちしていて、さらにバイト兼プレイヤーでビリヤードも熱心に練習していた。それぞれ週に3~4日練習ないし活動していて、なんとか1年頑張ったけれど、活動に顔を出せない機会が増えるにつき、どうにも立ち行かなくなったのだ。それで部活の一方を辞めることにしたのだが、辞めることによってそこで1年間育んできた人間関係や技術を捨ててしまうようで、人生最大の苦しさを味わった。捨てるなんて大げさだと思うかもしれないが、部活をやめた後輩とたまたま会ったときの気まずさは筆舌に尽くしがたいものがある。

迷いにもいろいろあるが、中でも夢や仕事、人との縁を捨てる苦悩はとてもつらい。しかし、自分に合っていないものを捨てないことによって、それ以外のもっと大切なものを、ゆっくりと時間を掛けて捨てているということに気づくのが大切だと思う。そう考えることで、後ろ向きになりやすいその時の自分を、少しでも前向きな思考に促すことができる。

 

目標を諦めてしまったことで、自己嫌悪に陥ったり、腐ってしまう人もいるかも知れない。しかし、目標に向かって頑張っている過程で何かを代償にしてきたと思う。それは自分のための時間だったり、身近な人への感謝の気持ちだったり、その間得られたはずの様々な経験だったりするだろう。ドロップアウトしたことで失うものに執着するのではなく、これまで失ってきたものを自分の元へ取り戻せたと捉えて、まずはそれらとの関係性を見つめ直して再定義してほしい。得たもののほうが大きいことに気づくはずである。

 

僕はといえば、医者をやめてツリーハウスを作り始めた。木の上に家が乗っているアレである。

小屋から始めれば良いものを、あえてハイレベルかつトリッキーなものから始めるというのが実に自分らしいと思う。抑圧から解き放たれて、「個性さん」がいびつな形で飛び出してきたのが手に取るようにわかる。それほどまでに建築家の夢が強かったのかと意外にも感じている。

しかし、最初から建築家を目指していたら、もちろん現在の自分は無い。就職に失敗して、もっと不満の大きい環境で自我をこじらせているかもしれない。あのとき建築家を捨てることで、安定した免許を手にした。いま医師を捨てることでツリーハウスを手にした(まだ土台しか出来てないが)。ツリーハウスもいつか捨てることになるだろう。朽ちるから。

 

またその時、何が得られるのかとても楽しみである。